私たちは通常、「痛み」という感覚を、身体のどこかで発生している「異常の知らせ」として認識しています。
例えば、指を切れば「指が痛い」と感じ、腰を痛めれば「腰が痛い」と思います。
しかし、神経科学の進歩は、この常識的な理解を根本から覆しつつあります。現代の痛み科学において、痛みは、単なる組織の損傷信号ではなく、脳が最終的に生み出す「複雑な出来事」 であると定義されています。
1. 痛みのゲートコントロール理論:脳が痛みを調節する
1965年にメルザックとウォールによって提唱された「ゲートコントロール理論」は、痛みが脊髄と脳で調節されることを初めて示した画期的な理論です。

この理論によれば、脊髄には痛みの信号の流れを調節する「ゲート(門)」があり、脳からの指令(ストレス、注意、過去の記憶など)や他の感覚入力(撫でる、摩擦するなど)によって、このゲートが開いたり閉じたりします。
つまり、たとえ身体から同じ強さの危険信号が送られてきても、脳が「今は安全だ」と判断すればゲートは閉じ、痛みは軽減されます。逆に、不安や恐怖を感じている時はゲートが開き、痛みを強く感じてしまうのです。これは、痛みが単なる感覚入力ではなく、脳の解釈と調節を経て初めて体験されるものであることを示す初期の重要な証拠でした。
2. 痛みの神経マトリックス理論:脳が「痛み」という体験を構築する
ゲートコントロール理論を発展させたのが、1990年代にメルザックによって提唱された「ニューロマトリックス(神経マトリックス)理論」です。この理論は、痛み体験がより能動的で複雑な脳のプロセスであることを説明します。
神経マトリックスとは、脳内に広がる神経ネットワークのことを指します。これは、感覚野(身体の地図)、辺縁系(情動)、前頭前野(思考、認知)など、複数の脳領域が密接に連携して構成される「痛みを生み出すためのシステム」です。
この理論の核心は、痛みは、身体からの入力が「必須」ではないという点です。神経マトリックスは、以下のような多様な情報を統合し、「痛み」という一つの出力を生み出します。
· 認知的入力:過去の痛みの記憶、痛みに対する信念や考え(「この痛みは危険だ」)
· 情動的入力:不安、恐怖、ストレス、抑うつ
· 感覚的入力:実際の組織損傷や炎症からの信号
例えば、幻肢痛(失った手足に感じる痛み)は、実際には存在しない手足に強い痛みを感じる現象です。これは、身体からの信号がないにもかかわらず、脳内の「身体の地図」と情動・記憶が結びつき、神経マトリックスが痛みを生成していることを如実に物語っています。
3. 慢性痛は「脳の学習障害」である
急性痛が組織損傷という「警報」であるのに対し、3ヶ月以上持続する慢性痛は、しばしば「警報システムの故障」に例えられます。長期にわたる痛みの刺激は、中枢神経系(脳と脊髄)に変化を引き起こし、痛みに過敏な状態(中枢性感作) を生み出します。
この状態では、本来は痛くないような軽い接触(衣服のこすれなど)で痛みを感じる「アロディニア」や、ちょっとした刺激に対して過大な痛み反応が起こります。これは、脳と脊髄の神経回路が「痛みを学習」し、誤った警報を鳴らし続けている状態、すなわち「脳の誤学習」や「可塑性の悪い方向への変化」 と捉えることができます。
結論:痛みの理解の転換がもたらすもの
以上の知見は、痛みの治療に対するアプローチを大きく変えつつあります。
· 従来のアプローチ:痛みの原因を「身体の部位」のみに探し、その部位への治療(注射、手術など)を中心とする。
· 新しいアプローチ:痛みを「脳を含む中枢神経系が生み出す複雑な体験」と捉え、身体的なアプローチに加えて、認知行動療法、マインドフルネス、運動療法(段階的運動暴露) などによって、脳の誤った痛みのパターンを「再学習」させることを目指す。
痛みは確かに「リアル」です。しかし、その発生源は必ずしも「組織の損傷」だけではなく、私たちの思考、感情、記憶が大きく関与する「脳の問題」でもあるのです。
このパラダイムシフトは、特に慢性痛に苦しむ多くの人々に、身体のみに焦点を当てるのではなく、脳を含む全体へのホリスティックなアプローチによる、新たな回復の道筋を示しています。
例えば、指を切れば「指が痛い」と感じ、腰を痛めれば「腰が痛い」と思います。
しかし、神経科学の進歩は、この常識的な理解を根本から覆しつつあります。現代の痛み科学において、痛みは、単なる組織の損傷信号ではなく、脳が最終的に生み出す「複雑な出来事」 であると定義されています。
1. 痛みのゲートコントロール理論:脳が痛みを調節する
1965年にメルザックとウォールによって提唱された「ゲートコントロール理論」は、痛みが脊髄と脳で調節されることを初めて示した画期的な理論です。

この理論によれば、脊髄には痛みの信号の流れを調節する「ゲート(門)」があり、脳からの指令(ストレス、注意、過去の記憶など)や他の感覚入力(撫でる、摩擦するなど)によって、このゲートが開いたり閉じたりします。
つまり、たとえ身体から同じ強さの危険信号が送られてきても、脳が「今は安全だ」と判断すればゲートは閉じ、痛みは軽減されます。逆に、不安や恐怖を感じている時はゲートが開き、痛みを強く感じてしまうのです。これは、痛みが単なる感覚入力ではなく、脳の解釈と調節を経て初めて体験されるものであることを示す初期の重要な証拠でした。
2. 痛みの神経マトリックス理論:脳が「痛み」という体験を構築する
ゲートコントロール理論を発展させたのが、1990年代にメルザックによって提唱された「ニューロマトリックス(神経マトリックス)理論」です。この理論は、痛み体験がより能動的で複雑な脳のプロセスであることを説明します。
神経マトリックスとは、脳内に広がる神経ネットワークのことを指します。これは、感覚野(身体の地図)、辺縁系(情動)、前頭前野(思考、認知)など、複数の脳領域が密接に連携して構成される「痛みを生み出すためのシステム」です。
この理論の核心は、痛みは、身体からの入力が「必須」ではないという点です。神経マトリックスは、以下のような多様な情報を統合し、「痛み」という一つの出力を生み出します。
· 認知的入力:過去の痛みの記憶、痛みに対する信念や考え(「この痛みは危険だ」)
· 情動的入力:不安、恐怖、ストレス、抑うつ
· 感覚的入力:実際の組織損傷や炎症からの信号
例えば、幻肢痛(失った手足に感じる痛み)は、実際には存在しない手足に強い痛みを感じる現象です。これは、身体からの信号がないにもかかわらず、脳内の「身体の地図」と情動・記憶が結びつき、神経マトリックスが痛みを生成していることを如実に物語っています。
3. 慢性痛は「脳の学習障害」である
急性痛が組織損傷という「警報」であるのに対し、3ヶ月以上持続する慢性痛は、しばしば「警報システムの故障」に例えられます。長期にわたる痛みの刺激は、中枢神経系(脳と脊髄)に変化を引き起こし、痛みに過敏な状態(中枢性感作) を生み出します。
この状態では、本来は痛くないような軽い接触(衣服のこすれなど)で痛みを感じる「アロディニア」や、ちょっとした刺激に対して過大な痛み反応が起こります。これは、脳と脊髄の神経回路が「痛みを学習」し、誤った警報を鳴らし続けている状態、すなわち「脳の誤学習」や「可塑性の悪い方向への変化」 と捉えることができます。
結論:痛みの理解の転換がもたらすもの
以上の知見は、痛みの治療に対するアプローチを大きく変えつつあります。
· 従来のアプローチ:痛みの原因を「身体の部位」のみに探し、その部位への治療(注射、手術など)を中心とする。
· 新しいアプローチ:痛みを「脳を含む中枢神経系が生み出す複雑な体験」と捉え、身体的なアプローチに加えて、認知行動療法、マインドフルネス、運動療法(段階的運動暴露) などによって、脳の誤った痛みのパターンを「再学習」させることを目指す。
痛みは確かに「リアル」です。しかし、その発生源は必ずしも「組織の損傷」だけではなく、私たちの思考、感情、記憶が大きく関与する「脳の問題」でもあるのです。
このパラダイムシフトは、特に慢性痛に苦しむ多くの人々に、身体のみに焦点を当てるのではなく、脳を含む全体へのホリスティックなアプローチによる、新たな回復の道筋を示しています。
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